創祀は平安時代後期と伝えられ詳らかではないが、江戸時代の甲斐国志には諏訪明神を祀るとあり
「和名抄」によれば奥州の戦功によって甲斐の守に任ぜられた甲斐源氏逸見氏始祖新羅三郎源義光公
が郭内に諏訪明神(建御名方命)及び八幡神(譽田別命)を祀り逸見神社と称し崇拝したと記される。
新羅三郎源義光の子である義清公は、久安・仁平年間(1145~1154)に逸見の谷戸(やと)
に要害城を築いた。その際に茶臼城(旧谷戸城)の南麓、森屋敷側にあった社を現在の鎮座地に遷し
祀ったと伝わる。その後、義清公の子である逸見冠者黒源太清光朝臣が谷戸城居城の際に武運をご
祈願あらせられ、社殿・瑞垣等を修築され社地寄進の墨付きを給わる等、逸見氏代々が崇拝する社
となり逸見神社と称するようになった。これが当社の始まりである。
永禄年中、武田晴信公(信玄)が信州出陣の際には社頭に武運を祈願し、黒印神領2石7斗5合、
社地2400坪を寄進された。このように甲斐源氏一門や近傍の人々の信仰は特に厚く武田氏を始
め、後の北条氏・德川氏も崇拝し祈願・寄進等の墨付きを給わったと伝わる。
天正2年(1574)八ヶ岳崩壊の際、水が暴溢し社中に蔵むる逸見氏・武田氏寄進の墨付きや宝
物等悉く流出し失ってしまった。現在も境内に巨石が数多く散在するのは、当時の大災害の様子を
現在に伝えている。
天正18年(1590)德川氏の関東入国の際には、当社の由緒御取調の上、先規の通り社領の御
寄進を受け、国家鎮護の祈願を仰せ付けられた。次いで慶長・元和年間(1614~1615)に
は関ヶ原大坂の陣の戦勝祈願を仰せ付けられ神符を献じられた。神主は神札と扇子一箱を毎年正月
6日に献上することを恒例としたため幕府の庇護も厚かったとされる。しかし、明治維新後の明治
4年に発令された社寺上地令により社領は公収せられ、更に逓減録を下賜された。明治6年の社格
制度制定に伴い郷社に列せられ、明治40年幣帛供進神社に指定を受け現在に至っている。